豊臣秀吉(とよとみひでよし)「戦国武将・戦国大名」

豊臣秀吉とよとみひでよし

豊臣秀吉
生没年
天文6年~慶長3年
1537年~1598年
別名
羽柴秀吉、木下藤吉郎、藤原秀吉、日吉丸など
豊臣家の家紋
官位
太閤、従一位関白、太政大臣、正二位内大臣、従三位権大納言、従四位下参議、従五位下左近衛少将、筑前守
居城
小谷城、長浜城、姫路城、大阪城、伏見城
生涯
豊臣秀吉は尾張中村の生まれで父は木下弥右衛門、母は仲と言います。
少年時代は放浪生活を送ったとされる秀吉は18歳の時に織田家に仕える事になります。7年後に「おね」と結婚し、それから「木下藤吉郎」と名乗るようになったと言われています。
その後、斉藤家との戦いでの功績が評価され、じょじょに織田家内での地位を高めていきますが、世に言う「墨俣の一夜城」の話に関しては懐疑的な見方が多い。
天正元年(1573年)には姓を羽柴と改名し、「羽柴秀吉」となる。この羽柴の姓は柴田勝家の「柴」、丹羽長秀の「羽」をとって羽柴としたとされています。
同年8月、織田軍は信長包囲網の一角であった浅井・朝倉の連合軍を破り、勲功のあった秀吉は旧浅井家の領地であった12万石を与えられます。この時、秀吉は一時的に小谷城を居城としますが、今浜に新たに城を築城し、「長浜」と名を改めて居城とします。
城持ちとなった秀吉は織田家の中でも重要な役割を果たすようになり、織田軍団の一角を担う事になります。

中国方面の攻略を任せられていた秀吉は高松城を水攻めで落とすなどし、戦果を広げていきますが、突如、当主である織田信長の悲報を聞く事になります。それを聞いた秀吉は「中国大返し」を決行、見事、信長殺しの首謀者である明智光秀を討ち取る事に成功します。
当主の仇討ちという大きな手柄を立てた秀吉は、その後の織田家の跡目争いでも大きな発言力を持つようになり、ライバルであった柴田勝家を追い詰め、柴田家を滅ぼす事に成功します。
これにより、織田家内の権力争いは実質、秀吉の勝利がほぼ決定づけられ、2年後には四国を制圧、続いて越中の佐々成政を降伏させます。

圧倒的な力を得た秀吉は自分に敵対する残りの勢力である、島津家、北条家を次々と破り、奥州を制圧した事で遂に天下統一を成し遂げる。
草履取りから身を起こした秀吉は遂に天下人となりました。
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