竹中重治(たけなかしげはる)「戦国武将・戦国大名」

竹中半兵衛(重治)たけなかしげはる

竹中半兵衛
生没年
天文13年~天正7年
1544年~1579年
別名
重虎、重治
竹中家の家紋
官位
なし
居城
岩手山城
生涯
竹中重治(半兵衛)は美濃の守護職にあたる斎藤義龍の子として斉藤家を継いだ三代目斉藤家の当主である斎藤龍興に仕えた武将で、通称である「竹中半兵衛」の名で有名な武将です。
重治の正室は美濃三人衆と呼ばれた安藤守就の娘で、その縁もあってか、1564年に竹中重治を主導者として、一夜の内に主君である斎藤龍興の居城、稲葉山城を占拠したとされる有名なエピソードの16人の中には安藤守就の名もあったとされています。
しかし、これは主君である斎藤龍興に危機管理を怠らぬように警告の為に行った行動であった為、城はすぐに龍興に返還しました。城を占拠していた際、織田信長から美濃の半分という破格の恩賞を与えるので城を引き渡すようにというアプローチがあったとされますが、重治はそれには全く応じなかったそうです。

この鮮やかな手並みに惚れ込んだ織田信長は家臣として是非、家臣として迎え入れたいと考え、その交渉役として木下藤吉郎秀吉(のちの豊臣秀吉)を任命しました。
秀吉は正にこの任の適任者と言える人物で、重治に何度もたずね、7回目にしてようやく、織田家に迎え入れる事ができました。
しかし、これには条件があり、それは秀吉の主君である信長の家臣ではなく、秀吉の与力として仕えたいというものでした。これを聞いた信長は大した違いはないと考え、これを承諾、これにより竹中半兵衛は織田家の一員となりました。

以降、秀吉の頭脳として大いに働き、姉川の戦いにおいては浅井家のいくつか寝返らせる事に成功し、秀吉が軍団長になってからは軍師として手腕を発揮、宇喜多家の八幡山城を調略によって落城させるなどしました。
その後も荒木村重の謀反により、黒田官兵衛が幽閉された際には機転を利かせ、黒田親子を無事、救助する事に成功した為、黒田官兵衛は半兵衛を終生の恩人としたそうです。

しかし、名軍師の名をほしいままにした竹中重治は1579年、元々、病弱の身であった事もあり、病が原因で36歳と言う若さでこの世を去りました。
こうして貴重な軍師を失った秀吉でしたが、運命は秀吉に味方し、秀吉の参謀役は重治が救助する事に成功した天才軍師・黒田官兵衛が引き継ぐ事になります。
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