おたあジュリア「戦国武将・戦国大名」

おたあジュリア

おたあジュリア
生没年
生没年不詳
家譜
父・不詳、母・不詳
生涯
おたあジュリアはキリシタン大名である小西行長に育てられた娘で、「おたあ」は日本名、「ジュリア」はキリスト教の洗礼名にあたります。
幼少の頃より小西行長の元に身を置いた事で行長と、その妻である菊姫の影響を受け、ジュリアもキリスト教徒の道を歩む事となります。

キリスト教徒となったジュリアは優れた教育者でもあった菊姫の教育を受け、高い教養と人を惹きつける魅力を兼ね備えた美しい女性へと成長していきます。
しかし、おたあジュリアの充実した幸せな日々は長くは続かず、保護者としてジュリアを支えてきた小西行長が1600年に起こった関ヶ原の戦いで西軍につき、東軍に敗れた事によって捕えられ、敗軍の将として処刑されてしまいます。

こうして、安定した生活の場を失ったジュリアでしたが、関ヶ原の戦いに勝利し、急激に勢力を拡大しつつある徳川家康が自身の侍女としてジュリアを召し抱えたいと言う話を持ちかけます。当時、最高の実力者とも言われた家康の誘いを断るという選択肢はなく、ジュリアは家康の侍女としての人生が始まりました。

ほどなくして、高い教養を持ち、魅力的な女性であったジュリアは家康の周りの他の侍女達にも大きな影響を与え、ジュリアが第一と考えていたキリスト教は侍女達の間でも広まっていく事となります。
しかし、武家として人々の上に立ち政治を行っていくという体制をとっていた徳川幕府にとって、万民の平等を唱えるキリスト教は相いれないものであり、じょじょに弾圧されるようになっていきます。

家康は自身の側室として迎えたいと考えている程、おたあジュリアを気にいっていたと言われていますが、キリスト教を第一に考えているジュリアを徳川幕府の征夷大将軍である自分の側室にする事はできず、苦心の末、伊豆大島へと追放するという決定を下します。

しかし、島に流された後も、家康のジュリアに対する執着は続いたようで信仰を捨て戻ってくるようにとする説得は続きましたが、おたあジュリアはそれを拒み続け、更に新島、神津島へと流される事となり、追放先の島で一生を終えたと伝えられています。

尚、ジュリアは流刑地においても人々に慕われる魅力的な人物であり続けたとされ、それを証明するかのように島にはジュリアのものとされる供養塔が残っており、現在でも毎年、慰霊祭が行われ続けています。
アクセスランキング TOP10