黒田官兵衛(くろだかんべえ)「戦国武将・戦国大名」

黒田官兵衛くろだかんべえ

黒田官兵衛
生没年
天文13年~天正7年
1544年~1579年
別名
如水、孝高、万吉、祐隆、政成、円清、ドン・シメオン(洗礼名)
黒田家の家紋
官位
従五位下
居城
姫路城、国府山城、中津城
生涯
黒田官兵衛は本名を黒田孝高(くろだよしたか)と言い、姫路城の城代だった小寺職隆の子として、この世に生を受けました。
この小寺と言う姓は姫路城の城主の姓とされていたもので、城主となった官兵衛の父・職隆が賜り、若い頃の官兵衛も姓は小寺と名乗っていました。

若い頃から才能を見出されていた孝高は16歳で近習として仕える事となり、22歳の時には隠居した父に代わって、家督を継ぎ、姫路城の城代となりました。

家督を継いだ孝高は当時、急速に力をつけはじめていた織田家に目をつけ、小寺家は織田家に属する事を決めた為、そのまま、中国地方の毛利攻めを行っていた秀吉軍に参加する事となりました。
しかし、有岡城主であった荒木村重が織田信長に反旗を翻し、説得に赴いた孝高は捕らえられて、幽閉されてしまうという失態を犯してしまいます。
1年後にようやく救出された孝高でしたが、狭く暗い場所に閉じ込められていた為、以降、孝高は目と足に障害が残ったとされています。

結果的には小寺家も荒木村重に同調して滅ぼされた為、その後は秀吉の軍師として活躍。毛利攻めの際に兵糧攻めや水攻めなど多くの策を立案し、大きく貢献しました。
また、本能寺の変で主君である織田信長が討たれた際には「君の御運開かせ給うべき初めでございます」と進言し、かの有名な秀吉の中国大返しの際にも手腕を発揮したとされています。

しかし、あまりの切れ者ぶりに主君であった秀吉も恐れを抱いたとさえ言われた黒田官兵衛は、その活躍に見合わない12万5000石という処遇に加え、豊前中津という中央から離れた地域に配属されたのでした。
その後、1589年には家督を嫡子である黒田長政に譲り、隠居しましたが、1600年に起こった関が原の戦いの際には手勢1万という軍を用い、僅か10日間で薩摩を除く、全九州を平定するという離れ業をやってのけましたが、関が原の戦いがあまりに早く決着がついてしまったので、孝高は潔く、関が原の勝利者である徳川家康に占拠した土地を渡したそうです。
その時、孝高に天下取りの野心があったかは不明ですが、少なくてもなんらかの計画を持って、行動を起こした事は確実だと言えるでしょう。

徳川家康に従属後は歴史の表舞台から姿を消し、晩年を迎える事となりました。

余談ですが、2014年の大河ドラマの主役はこの黒田官兵衛となり、その事によって、益々、官兵衛の人気は高まる事が予想されます。
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