加藤清正(かとうきよまさ)「戦国武将・戦国大名」

加藤清正かとうきよまさ

加藤清正
生没年
永禄5年~慶長16年
1562年~1611年
別名
虎之助、夜叉丸
加藤家の家紋
官位
肥後守、従四位下、贈従三位
居城
隈本城(熊本城)
生涯
加藤清正は後の天下人であり、主君でもあった豊臣秀吉と同じ尾張中村(現在の愛知県名古屋市中村区)の生まれとされており、三歳の時に鍛冶屋である父・清忠が亡くなった事から幼少の頃より秀吉に仕え、特に賤ヶ岳の戦いにおいて活躍があった事から「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられています。

秀吉の主君であった信長の死から6年が経った1588年に当時、肥後の領主であった佐々成政(さっさなりまさ)が検地一揆の失敗を咎められて、秀吉に切腹を命じられると後に五奉行の一人となる小西行長(こにしゆきなが)と共に肥後を二分して治める事となった為、清正は隈本城の城主となり、19万5000石を所領しました。

その後の加藤清正の活躍としては1592年の朝鮮の役に参戦し、朝鮮軍を次々と破って京城(ソウル)に入り、同年の7月には王子2名を捕らえるなどして大いに武名を馳せました。
しかし、豊臣軍の旗色が悪くなると、王子を放免するという条件で石田三成(いしだみつなり)による講和が進められましたが、清正は領土分譲を目的としていた事から攻撃を続けました。
これに対して講和を行っていた石田三成が清正が講和を妨害していると秀吉に伝えたため、秀吉は怒り、清正を謹慎処分とします。

秀吉の死後は関が原の戦いにおいて徳川方の武将として戦って活躍し、肥後一国51万5000石の大名となります。
その後、清正は自らの築城の腕を活かして隈本城を改築し、1607年には居城である隈本城を更に見事な城へと進化させます。
隈本城の改築後、清正は50歳でその生涯を終えます。その死は毒殺であったとも伝えられていますが、作り話だという説もあり、真偽は不明のままとなっています。
アクセスランキング TOP10