甲斐姫(かいひめ)「戦国武将・戦国大名」

甲斐姫かいひめ

甲斐姫
生没年
1572年?~没年不詳
家譜
父・成田氏長
母・由良成繁の娘
生涯
甲斐姫は北条家の家臣であり、忍城の城主であった成田氏長の子として生まれましたが、氏長には男子が生まれなかった事から、甲斐姫に武術や兵法を幼少の頃より学ばせており、並みの男子では太刀打ちできないほどの強さを持つ、姫武将へと成長していきました。
また、甲斐姫は女性としての美しさも兼ね備えており、その美しさは東国一とも評されていたそうです。

甲斐姫の名が世に広まったのは、当時、天下統一をほぼ達成していた豊臣秀吉の軍との戦いでしょう。
秀吉は天下統一の総仕上げとして、反抗勢力であった北条家への攻撃を開始しました。これが世に言う「小田原征伐」で、秀吉軍は当時としては考えられない程のとてつもない兵力を集めたとされています。
この小田原征伐に伴って、小田原城の周りに位置する支城を落とす事となった秀吉軍は、豊臣家の重臣・石田三成が成田氏長の居城である忍城の攻撃を担当する事となりました。
忍城は兵力が少なく、20000の軍勢を引き連れた三成軍に対して、圧倒的に不利な状況にありましたが、甲斐姫の城を守るという考えは変わらず、兵達も猛々しくも美しい、甲斐姫の姿に鼓舞され、城の者達は全力で城を守る事を決意します。

そして、豊臣軍による忍城への攻撃が始まりましたが、忍城は湿地に囲まれた攻めづらい土地で、しかも時期が梅雨時であった事も幸いし、大兵力を要する豊臣軍は攻めあぐね、ついには三成は堤防を築き、水攻めを慣行するという苦肉の策にでますが、梅雨の長雨により、堤防は決壊。三成軍の作戦は失敗に終わります。
堤防が決壊して士気が下がっていた豊臣軍に対して、甲斐姫は200の手勢を連れて果敢に攻撃をしかけ、三宅高繁などを弓で射殺し、更に抵抗を続けますが北条家の本城であった小田原城が陥落した事から、この戦は豊臣方の勝利に終わります。
こうして、忍城は開城する事となりましたが、天下の豊臣軍に対して頑強に抵抗し、城の陥落を防いだという自負もあってか、忍城の兵達と甲斐姫の顔は晴々としたものだったと言われています。

その後、甲斐姫は豊臣家の武将である蒲生氏郷の預かり人となり、噂の姫武将となった甲斐姫を秀吉は側室に迎え入れたいと考えますが、甲斐姫の消息は突然、途絶え、それ以降どのような人生を送ったかは未だに謎のままとなっています。

※尚、現在では『成田記』などに記されている通り、秀吉の側室として生涯を遂げたとする説が一般的です。
アクセスランキング TOP10