石田三成(いしだみつなり)「戦国武将・戦国大名」

石田三成いしだみつなり

石田三成
生没年
永禄3年~慶長5年
1560年~1600年
別名
佐吉、三也
石田家の家紋
官位
従四位下、従五位下
居城
水口城、佐和山城
生涯
石田三成は父の名を石田正継と言い、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市)の旧家にて誕生しました。
その後、三成が14か15歳位の頃に、鷹狩りの帰りに立ち寄った秀吉と三成の人生を大きく変える運命の出会いを果たします。
この時、秀吉が茶を所望したところ、一杯目はぬるいお茶を、二杯目は少し熱めのお茶を、三杯目は熱いお茶をだしてもてなした所、秀吉は細かい気配りができる三成を大変、気に入り、自らの小姓に取り立てたと言われています。

武将としてよりも、太閤検地などを行った頭脳派の吏僚(りりょう)として有名な三成ですが、信長の死後の柴田勝家との戦では、大谷吉継(おおたによしつぐ)と共に七本槍に次ぐ、武功を上げたとされています。
また、秀吉の小田原征伐の際には北条家の持つ、館林城(たてばやしじょう)、忍城(おしじょう)の攻略にも参加し、中でも忍城攻略の際には「水攻め」の策を考案し、大いに活躍したと伝えられています。
その後、秀吉が関白の座に就くと三成は従五位下治部少輔に任じられ、秀吉から奉行として高い能力を買われていた三成は朝鮮出兵の際にも船奉行、軍奉行を務めます。
1595年には近江の佐和山城の城主となり、19万4000石を領しますが、2年後の1597年の慶長の役では三成を中心とした小西行長らの文治派と蜂須賀家正、加藤清正ら武断派との間に大きな亀裂を生む事となり、この事が三成の今後にも大きな影響を与える事となります。

主君である豊臣秀吉は晩年になって、豊臣五大老、五奉行の職を設置し、五奉行に石田三成は任命され、行政を主に担当する事となります。その他には「長塚正家(なつかまさいえ)」、浅野長政(あさのながまさ)、前田玄以(まえだげんい)、増田長盛(ましたながもり)などが任命され、それぞれ、財政、司法、宗教、土木などを担当しました。

秀吉の死後は三成と福島正則、加藤清正、細川忠興などの武断派の武将達との争いは激化し、襲撃などを受けた事から身の危険を感じた三成は佐和山城に篭り、しばらく人との交わりを断つ事となります。
以降、豊臣家の武断派の武将達は徳川家康との距離を縮めていき、共に会津征伐に向かうなどした事から、徳川家康の力が強まり、豊臣政権の崩壊が起こると感じた三成ら五奉行は、大老・毛利輝元、宇喜田秀家らを説得し、打倒家康を掲げて挙兵します。
それから、幾度となく小競り合いがあった後、ついに歴史的にも有名な「関が原の戦い」が勃発する事となります。
戦いが開始された午前中の序盤戦は兵力が拮抗していた事もあり、一進一退の攻防が続きましたが、味方の毛利勢の兵が動かず、小早川秀秋が徳川家に寝返るなどした為、三成率いる西軍は一気に総崩れとなり、敗走を余儀なくされるのでした。

三成はなんとか戦場を逃れ、山中に潜む事に成功しますが、徳川方の家臣に捕まり、京都へと護送されます。
1600年10月1日、石田三成は小西行長、安国寺恵瓊ら共に切られ、41歳でその生涯を終える事となったのです。
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