五郎八姫(いろはひめ)「戦国武将・戦国大名」

五郎八姫いろはひめ

五郎八姫
生没年
文禄3年~寛文元年
1594年~1661年
家譜
父:伊達政宗、母:愛姫
夫:松平忠輝
生涯
五郎八姫(いろはひめ)は伊達政宗と愛姫との間に産まれた最初の子であり、大変、聡明な人物として知られ、父・政宗は五郎八姫が男子として生まれなかった事を惜しんだと言われています。
また、五郎八(いろは)という名前については政宗が男子が生まれた場合の事しか考えていなかった為、このような名前になったという説と女子に男子の名前をつけると次に生まれる子が男子になるという俗説があったとする説があります。
美しく成長し、12歳になった五郎八姫は徳川家との結びつきと強くしたいという伊達家の思惑と豊臣政権下での勢力を強化したいという徳川家の思惑が合致した事から徳川家康の六男である松平忠輝(まつだいらただてる)に嫁ぐ事となり、この結婚の仲介役として白羽の矢が立ったのは堺の豪商として知られる今井宗薫でした。
しかし、この結婚は五郎八姫に悲劇をもたらす事となります。夫となった松平忠輝が「大阪夏の陣」に遅参するという失態を犯してしまった事から家康に改易されてしまったのです。
これにより、子のいなかった五郎八姫は23歳と言う年齢で実家へと戻る事となりますが、再婚話を度々持ちかける政宗に対してはその都度、拒否し続けるのでした。
五郎八姫が再婚をしたがらなかった大きな理由は彼女が再婚を良しとしないキリスト教の信者でだった為だと考えられており、母である愛姫と夫であった忠輝が共にキリスト教徒であった事が五郎八姫の人生観に更に強い影響を与えたと思われます。

こうして五郎八姫は68歳で亡くなるまで再婚する事はなく、天寿をまっとうしたのでした。
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